1988年から1989年

CASAの設立

 1988年10月17日、1970年代から地域の大気汚染反対・公害被害者救済の運動に取組んできた公害被害者運動と、1981年3月頃から全国に先駆けて「フロンガス規制」、「地球温暖化問題」を取り上げてきた全大阪消費者団体連絡会をはじめとする消費者運動、そして、先駆的に公害問題や地球環境問題に取組んできた科学者の運動が合流し、大阪で「大気問題を考える市民会議」が設立された。1989年3月には「大気問題を考える全国市民会議」と改称した。さらに、1990年6月には、「地球環境と大気汚染を考える全国市民会議」に改称している。英語名は、「Citizens' Alliance for Saving the Atmosphere and the Earth」とされ、略称は「CASA」とされた。CASAとはスペイン語で「家」という意味である。
 

「CFCsに関するロンドン市民会議」に代表派遣

1989年3月、イギリス政府は、世界のNGOの代表を招いて、「CFCs(フロンガス)に関するロンドン市民会議」を開催した。CASAも、この市民会議に招聘され、山村代表理事が参加した。この会議後、様々な国際環境会議に招かれるようになり、CASAの設立の大きな目的の1つであった「海外のNGOとの交流、国際会議への積極参加」の活動が大きく進むことになった。
 

「地球環境と大気汚染を考える国際市民シンポジウム」の開催

1989年9月、日本政府は海外の代表を招いて「地球環境国際会議」を東京で開催した。これに対して市民の立場から地球環境問題を考えようと、レイチェルカーソン日本協会(JRCC)、全国公害患者と家族の会、地球の友・日本とCASAの4団体の共催で、9月7、8日の両日にわたって、京都と大阪で国際市民シンポジウムが開催された。この国際市民シンポジウムには、9カ国から13名の海外代表、国内から京都会場150人、大阪会場1250人が参加し、「共同アピール」を採択し、大きな成功を治めた。
  

1990年

アースデー1990

1989年9月 8日、大阪での国際市民シンポジウムの会場で、山村代表理事は、主催者を代表して挨拶し、参加者に「90年アースデー」への取組を呼びかけた。アースデーは、1970年にアメリカで取り組まれ、2000万人が参加したといわれる。それから20年目の1990年のアースデーは、世界での取組が呼びかけられていた。CASAは、1989年11月に臨時総会を開催し、全力で「アースデー1990」に取組むことを決め、同年12月には「アースデー1990ネットワーク」を発足させ、アースデー国際協議会とも連絡をとりながら、準備をすすめた。1990年4月22日のアースデーには、中之島公園で「アースデー1990フェスティバルin中之島」が取組まれ、その後の「御堂筋パレード」には51団体、2000人が参加した。CASAで集約しただけでも、日本国内で約800ヶ所、50万人が参加し、国際的な連帯行動としての役割を果たすことができた。
 

広がる国際連帯活動

国際連帯活動は、その後も活発につづけられ、1990年2月には「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第3回総会」(ワシントン)に代表派遣、3月にはサラワク支援でニチメン、日商岩井、住友林業などに熱帯木材の輸入自粛などを申入、5月にはヒューストンサミットに向けて7カ国のNGOとの共同提言、10月にはジュネーブの第2回世界気候会議、11月にはカイロの国際環境情報センター(ELCI)総会に代表を派遣した。 
 

日本政府への申入行動

1989年7月、国際市民シンポジウムの開催に先立ち、CASAは環境庁、外務省に、「かけがいのない地球を守るためにー共同要求10項目」を申し入れた。国際市民シンポジウムのアピールも政府主催の東京会議で配布し、国連環境計画(UNEP)にも送付した。また、この「共同要求10項目署名」は、1990年6月には116,172名に達し、日本政府に提出された。また、10月には「地球温暖化対策」で政府に申し入れ行動を行った。
 
 

1991年

CASAレター第1号の発行

CASAの活動や地球環境問題をめぐる最新の情報を掲載したCASAレターが創刊。以来、年4回の発行を目指している。
 

湾岸戦争NO!で、米、イラク両国大統領へ緊急打電

1991年は湾岸戦争で始まった。1月7日、ベルギーのアース・アクション・インターナショナルからの呼びかけに応じて、湾岸戦争回避を、ジョージ・ブッシュ米大統領と、サダム・フセインイラク大統領に緊急打電した。
 

地球サミットに向けた取組

1990年12月、「92年の環境と開発に関する国連会議に向けて」を開催し、地球サミットに向けた活動が始まった。1991年2月には、「地球環境研究者会議」が設立され、地球環境問題についての連続研究会が開催された。4月には、「アース基金協会」が設立され、地球サミットに向けた「マンデート1億人署名」をスタートした。6月には、バングラディシュのNGOやサラワク先住民の女性たちを招いて「国連環境開発会議へ向けたアジア市民の集い」を開催し、バングラディシュの死者20万人を越すサイクロン被害の状況や、日本の熱帯材の輸入のため原生林が根こそぎ破壊され生存が脅かされているサラワク先住民の訴えを聞いた。さらに、11月には「地球サミットを成功させる市民の集い」が地球環境研究者会議との共催で開催され、850人が参加し、「地球サミットの意義と市民の役割」が討議された。また、地球サミットの期間中に世界のNGOが開催する「NGOフォーラム」の準備会合や、地球サミットに向けた国連の準備会合にも代表を派遣した。
 

OECD環境相会議への提言

1991年12月のパリでOECD環境相会議に対し、国際環境連絡センター(ELCI)、ヨーロッパ環境ビューロー(EEB)、CASAの3団体で、地球サミットの成功に向けてOECDが行動するよう求める連名の意見書を提出した。
 

世界NGO会議(パリ)に代表派遣。

1991年12月、フランス政府の支援のもと、150カ国から862名が参加して「世界NGO会議」が開催された。この会議の目的は、(1)地球サミットに向けた世界のNGO運動を集約し、(2)NGO間のネットワークと連帯を深め、(3)90年代の行動計画に対するNGO戦略を確立することである。CASAからは、山村・泉代表理事が参加し、提言文書「かけがいのない地球を救うために」を配布した。
 
 

1992年

地球サミット参加代表団

1992年2月、地球サミット参加代表団の結団式ともいうべき「地球サミット&グローバルフォーラム92‘NGO代表団結成の集い」が開催された。公害被害者、大気汚染裁判弁護団、生協、環境団体、消費者団体、研究者、音楽家など、18団体、96名という予想をはるかに上回る参加代表団が、CASAが事務局となって結成された。
 

地球サミット

世界のNGOが集った「グローバル・フォーラム」は、地球サミットと並行してリオデジャネイロ市内のフラメンゴ公園で開催され、165カ国から17000人が参加したとされる。会場には、大小様々な35のテントと650区画のブースが設けられ、ブラジル国内からの参加者を含めて連日、数万人の人々でにぎわった。日本のNGOは30番テントを貸し切り、「Japan People's Center」と名づけて、様々な団体がシンポジウムや交流会、音楽会などを繰り広げた。また、30番テントの近くには10近い日本のNGOのブースが設けられ、大気汚染の測定や展示、折り紙などが行われた。こうした日本のNGOの活動は、数あるテントの中でも最も人気のあるテントであった。CASAも、6月4日に地球環境研究会との共催で「地球温暖化問題に関する国際フォーラム」を開催した。このフォーラムの目的は、これまでの地球温暖化問題についての研究成果を踏まえて、地球温暖化問題の重要性をあらためてアピールするとともに、リオ後のNGOの地球温暖化防止のための戦略と実践的課題を明らかにすることだった。様々な国からの数十人の参加者が最後まで熱心に討議に参加した。また、地球サミット参加代表団の各団体は、「戦争による環境被害についての交流会」、「日本の公害経験と世界の公害被害者交流会」、「市民による大気汚染測定ネットワークの呼びかけ」、「SD(持続可能な発展)についてのシンポジウム」、「コンサート」などを開催し、いずれも大きな成功を治めることができた。
 

ビデオ「湾岸戦争による環境破壊」発売

CASA会員である研究者が現地へ入り、湾岸戦争による環境破壊の現場をレポートしたビデオ。いかに戦争が無益かがわかる。
 

下垣内博代表理事逝去

10月2日、CASAの産みの親であり、育ての親べあった下垣内博代表理事が突然の心臓発作で逝去された。12月19日には、「下垣内博さんを忍ぶ会」が持たれた。
 

1993年

地球環境大学の開講

1993年6月、「病める地球を救うために」と題する第・期地球環境大学が開講した。リオでの地球サミットの到達点を踏まえて、私たち市民が地球規模の環境問題と足元の環境問題について、持続的に活動して行くために開かれた市民講座として,年6回の講座が計画された。この後、地球環境大学は毎年行われるようになった。
 

国連持続可能な開発委員会(CSD)への参加

1993年6月、地球サミットで合意された「アジェンダ21」をフォローする「第1回国連持続可能な開発委員会(CSD)」が開催され、CASAからも代表が参加した。以後、毎年のCSDに代表を送ることになった。
 

環境基本法についての取組

地球サミットを受けて、環境庁は公害対策基本法と自然環境保全法を抜本的に改正する環境基本法の策定作業に入った。CASAでは、1992年12月、公害患者会、大阪自然環境保全協会、大阪から公害をなくす会、瀬戸内の環境を守る会との共催で、環境庁の担当者を招いて、パネルディスカッション「環境基本法を考える」を開催した。また、1993年4月には、再度、「シンポジウムーよりよい環境基本法を目指して」を、同年、10月には「シンポジウムー再び、環境基本法を考える」を開催した。また、「環境基本法」制定に対する要望書を日本政府に提出したり、環境基本法案に対するCASAの意見書、各政党へのアンケート調査を実施するなどの活動に取組んだ。
 

「地球サミット資料集」出版

1993年5月には、グローバルフォーラムで世界のNGOが集まって作成した「NGO条約」を翻訳した「地球サミット資料集」を出版した。
  

1994年

気候変動問題への取組

地球サミットでは、気候変動枠組条約と生物の多様性保全条約が合意され、署名が開始された。しかし、これらの条約はアメリカや日本などの消極的な対応のため、極めて不充分な条約になってしまった。CASAでは、これまでも気候変動問題に積極的に取組んできたが、政府間交渉会議(INC)に代表派遣したり、世界の環境NGOが各国の対策を評価する気候行動ネットワーク(CAN)の「第1回評価報告書」の「日本政府の「地球温暖化防止計画」の問題点」を担当したり、環境庁や通産省の気候変動問題についてのヒアリングに参加したり、地球温暖化問題について外務省、通産省、環境庁への要請行動を行うなど、これまで以上に気候変動問題への取組を積極的に進めることになった。
 

市民による大気汚染測定ネットワーク

CASAでは、酸性雨調査研究会、全国公害患者会などと、NO2,SO2,酸性雨、降下煤塵などの測定運動を世界に広める活動を続けてきた。世界NGO会議や地球サミットのグローバルフォーラム等でも、日本で市民が行っている大気汚染測定を紹介し、世界的なネットワークを呼びかけた。また、東欧、インドネシア、タイなどに、大気汚染測定のための交流団を派遣してきた。1994年には、17カ国、34のNGOに測定機器が送付され、世界で一斉測定が行われた。
 

環境基本計画についての取組

1993年12月、環境基本法が成立した。この環境基本法に基づく「環境基本計画」が検討されることになり、1994年7月、中央環境審議会は「環境基本計画検討の中間とりまとめ」を公表し、全国9地域でヒアリングを行うこととなった。CASAでは、他の4団体とともにこの環境基本計画についても全国に先駆けて取組を開始し、1994年7月、環境庁の担当者も参加して「環境基本計画シンポジウム」が開催された。また、ヒアリングに参加するとともに、「中間とりまとめ」に対するCASAの意見をまとめ政府に提出した。 
 
 

1995年

西淀川公害裁判、被告企業との全面勝利和解と道路公害を認める画期的な判決

CASAでは、設立の目的に、大気汚染被害者支援をかかげ、西淀川公害裁判などの大気汚染公害裁判の支援をしてきた。西淀川公害裁判は提訴後、13年にわたる裁判闘争の末、1991年3月の被告企業の公害責任を認める勝利判決を勝ちとり、1995年3月に被告企業がその責任を認め、賠償金を支払うという全面勝利の和解が成立した。また、同年7月5日には、残った道路公害について、日本で初めて自動車排ガスの健康影響を認める画期的な判決を勝ち取った。西淀川公害裁判原告・弁護団は、和解金の一部を公害地域の再生などの資金とすることを決め、「財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団)」を設立した。
 

気候変動問題枠組条約第1回締約国会議(COP1)

1995年3月、ベルリンでCOP1が開催された。このCOP1で、世界の環境NGOは、小規模島しょ国連合(AOSIS)が提案していた、「2005年までに、CO2排出量を1990年の排出量から20%削減する議定書」の採択を求めて活動した。CASAもCOP1に3名の代表を送り、世界のNGOとともに活動した。しかし、具体的な削減義務を合意することができず、1997年に開催されるCOP3で、削減目標と達成期限を決めるとする「ベルリンマンデート」を採択して終了した。このベルリンマンデートにより、COP3が決定的に重要な会議となった。そして、この重要な会議の議長国として日本政府が手をあげたのである。ここから、COP3への長い道のりが始まることになった。
 

東アジア大気行動ネットワーク(AANEA)の結成

1995年8月、ソウルに、韓国、中国、香港、台湾、モンゴル、ロシア、日本の東アジア7地域の環境NGOが集まり、東アジア大気行動ネットワーク(AANEA)が結成された。目的は、地域の大気汚染問題、酸性雨、フロンガスによるオゾン層の破壊や地球温暖化問題について、情報交換や経験交流をすることによって、東アジアの環境NGOのネットワークをつくることである。CASAも運営委員団体となり、第2回総会は大阪で開催されることになった。
 

1996年

AANEA第2回大阪総会

1996年3月、大阪でAANEA第2回総会が開催された。この総会には、東アジア7地域のAANEAメンバーだけでなく、地球温暖化問題に取組む気候行動ネットワーク(CAN)の南アジア、東南アジアのメンバー、またCOP1に取組んだドイツの環境NGOのネットワークであるクリマフォーラムの代表も招聘した。この総会では、東アジア地域の大気汚染問題、酸性雨、フロンガスによるオゾン層の破壊や地球温暖化問題についての研究や情報交換だけでなく、COP3に向けた東アジア地域の活動についても討議された。
 

「しのびよる地球温暖化」の出版と研究会の開催

COP3の日本での開催はほぼ決まったが、肝心の日本市民の地球温暖化問題やCOP3への関心はいっこうに高まらなかった。COP3を成功させるためには、地球温暖化問題やCOP3への民の関心を高めることが不可欠であった。CASAでは、こうした状況を打開すべく、ブックレット「しのびよる地球温暖化」を出版するとともに、第・期地球環境大学のテーマを「しのびよる地球温暖化」として開講することにした。また、地球温暖化問題やCOP3で討議される論点についての研究をすすめるため、6月には「第1回気候変動問題研究会」を開催した。この気候変動問題研究会は、1999年1月までに、22回開催されている。
 

気候変動枠組条約第2回締約国会議(COP2)に代表派遣

7月8日から19日までスイスのジュネーブにある国連欧州本部で気候変動枠組条約第2回締約国会議(COP2)が開催された、161カ国から989名の政府代表と106のNGOが参加した。CASAからも6名が参加した。会議は、産油国やロシアなどの強硬な反対による難航したが、7月18日午後にはIPCCの第2次評価報告書を現時点で最も包括的で権威あるものと高く評価し、COP3で採択される予定の温室効果ガスの削減目標は法的拘束力のあるものとすべきことを明記した「閣僚宣言」が採択された。また、COP3を1997年12月1日から12日まで京都で開催することが正式に決定された。
 

環境アセスメント法についての取組

1996年6月、内閣総理大臣は中央環境審議会に対し、「今後の環境影響評価のあり方」を諮問した。CASAでは、環境基本法や環境基本計画について共同で取組んできた5団体で、1996年7月、学習会「環境アセスメントを考える」を開催するとともに、ヒアリングに参加した。アセスメント法が成立後も、成立したアセスメント法について、学習会「アセスメント法をどう活用するか」を開催し、アセスメント法の概要と、その活用法、残された課題について討議した。
 

1997年

気候フォーラムの結成

1996年12月1日、COP3を成功させるためのNGOのネットワークである「気候フォーラム」が結成された。CASAからは、泉代表理事が気候フォーラムの常任運営委員、早川専務理事が事務局次長となって、気候フォーラムの活動を支えることになった。気候フォーラムは、COP3に向けた日本の市民・NGOのネットワークとして活動し、大きな成果をあげた。
 

CO2排出削減戦略の提言

1997年10月7日、CASAは「CO2排出削減戦略の提言」を発表した。COP3に向けた交渉は、アメリカや日本などの消極的な姿勢にためにほとんどすすまず、COP3で削減議定書を採択せきるかはまったく見通しのたたない状況が続いていた。日本政府が、削減議定書に消極的な態度をとる最大の理由は、日本でのCO2の排出量が増えつづけ、削減の見通しがないことにあった。この「CO2排出削減戦略の提言」は、CASAではCASA内の15名の研究者が、日本におけるCO2の排出削減の可能性についての検討したもので、利用可能な各種のCO2排出削減技術の導入を図った場合に、どの程度のCO2の排出削減が可能かを評価・分析したもので、1995年レベルに物質生産量や交通量を維持すれば、2010年までに1990年レベルから21%の排出削減が可能と結論づけた。この提言は、マスコミにも大きく取り上げられ、大きな反響を呼んだ。
 

COP3での活動

COP3は、12月11日に京都議定書を採択して終了した。このCOP3には、161カ国、40国際機関が参加し、NGO関係者、マスコミ関係者を含めると、9850人が参加したとされる。CASAも、気候フォーラムの運営に協力するとともに、削減可能性についてのシンポジウムを開催するなど会議の成功に向けて活動した。議定書の内容は、2008年から2012年の平均排出量を1990年レベルから約5%削減するとするもので、削減の合意ができたことは一歩前進である。しかし、その目標は温暖化防止に極めて不充分なだけでなく、「抜け穴」になりかねない排出量取引、クリーン開発メカニズムなどが用意されており、京都議定書が本当に地球温暖化防止に役立つ議定書になりうるかどうかは、今後の取組にかかることになった。
 

1998年

「温暖化対策を推進するための政策と措置についての提言」発表

1997年10月に発表した「CO2排出削減戦略の提言」(日本国内で2010年に1990年水準より21%二酸化炭素を削減できるといった試算)で指摘したCO2排出削減の技術的・政策的可能性を現実のものとするためにとられるべき政策と措置を産業、運輸、民生家庭、民生業務、エネルギー転換、廃棄物、環境アセスメント関連の7部門で143提案している。また、この具体的な政策と措置を実施してゆくための法制度を検討した結果、79の法令の改正と廃止、5つの新法の制定そして、64に及ぶ行政計画の改定が必要であることが明らかとなった。
 

ダイオキシン・ごみ問題への取組

第・期地球環境大学では、ダイオキシン・ごみ問題を取り上げた。この講座が企画された頃は、能勢町のごみ焼却場のダイオキシン問題が取り上げられるなど、ダイオキシン問題を契機にごみ問題が社会的にも大きく取り上げられ、CASAの講座にも、例年よりはるかに多い受講者が参加した。この講座では、講義者を1人にし、質問を質問書で受け付け、回答時間を増やしたり、時間の関係で答えられなかった質問には後日、文書で回答をするなどの工夫を行い好評だった。また、講座参加者のなかから、希望者を募って、身近な塩ビ商品の調査や自治体やメーカーなどへのアンケート調査なども行った。さらに、毎日新聞と連携して、パンフレット「みんなで考えようダイオキシン」を発行した。
 

ブックレット「温暖化を防ぐ快適生活」出版

「CO2排出削減戦略の提言」をもとに、家庭でできる具体的な行動を分かり易く解説したものである。家庭での温暖化対策は、こまめにスイッチを消したり、電気を使うのをがまんするといった、細かくて忍耐が強いられるものだというイメージがある。しかし、この本では、紹介している対策の中から自分にあったものを選んで、毎日楽に、温暖化防止が行えるようになっている。是非、一度、この本を読んで、みなさんの家庭でも各々の温暖化防止ライフスタイルを開発し、温暖化防止に挑戦してみてほしい。
 

西淀川公害裁判全面解決

1998年7月、西淀川公害裁判は被告国・阪神高速道路公団と、被害者側の要求を認めた勝利の和解を勝ち取り、裁判闘争は全面解決した。この和解では、道路からの自動車排ガスの健康影響を認めた1995年7月の判決を維持したうえで、道路公害の根絶に向けた対策の方向性を確認し、被告国・公団と被害者とが、道路沿道をはじめとする地域の環境改善について継続的に協議する協議を約束させている。
 

COP4への代表派遣

1998年11月、アルゼンチンでCOP4が開催された。COP4の任務は、条約の実施状況の検討と、京都議定書の削減目標の達成に向けた、具体的な国内政策を確認し、京都議定書が積み残した履行確保の制度や排出量取引、クリーン開発メカニズムなどについての合意を形成し、議定書の発効に向けた確実な歩みを刻むことだった。しかし、会議は初日から紛糾し、結局、今後の討議スケジュールを決めただけで、何も実質的な議論ができずに終了した。CASAでは、「COP3以降の地球温暖化対策に対するCASAの見解」を配布し、議定書の早期の発効と確実な削減対策を訴えた。決められたスケジュールでは、2000年に開催されるCOP6で合意を目指すことになっている。

地球環境と大気汚染を考える全国市民会議(CASA)

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